時の流れは事実の解釈を変える
世の中には、差別はつきものだ。
よく問題になるのが「女性差別」。
それで、男性は弱い立場にある女性を助けたくなる。
それはとてもよく理解できる。
しかし、「女性は弱い立場にある」という前提を逆手にとって(意識してるかいないかに関わらず)、男性は得てして弱い立場に置かれやすいという現実に気が付いた。
現にそういったことを今まで多く経験してきたし、男性はそういったことを声を大きくしては言いづらい、言えない立場にある。
だからといって、被害者意識で過ごしていればいいというものではない。
それでも、生きていくのだ。
具体的にどうやって生きていくかは模索しながら、試行錯誤しながら生きていくしかない。
ただ、女性差別があるのは事実だし、あまり認知されていないように思うが、男性差別もあることも事実だ。
僕は男性差別が怖くて、女性と関係を深めるのが怖くてしかたなかった過去がある。
その恐怖心が大きくなりすぎて、自分だけが被害かのように感じていた。
今なら分かる。
相手の女性も「女性である」ということでうける理不尽な差別に怒り、恐れ、その気持ちと日々戦っていたのだと。
僕はその弱みを(当時は意識していなかったが)利用して、その女性と関係をもったのだ。
今冷静に分析すると、かなり最低なことをしたのだと思う。
僕は相手が拒絶しないから、大丈夫なのだと勘違いしていた。
お互いの同意の上での行為だと認識していた。
相手の女性の中にある複雑な心理状態を察することができなかった。
目の前の(身体的・精神的)快楽、安心、現実逃避に負けていた。
当時はできなかった解釈が、時間を経てできるようになった。
今までとは違った視点でものごとをみれるようになった。
この視点だって、多くある解釈のうちの1つに過ぎない。
それにも気づくことができた。
気づくことができたら、次へ進むのだ。
前へ進むのだ。
自分を自分で鼓舞し続けるのだ。
生きろ。
強くなれ。
お前は、君は、あなたはひとりじゃない。
未来の自分がそれを知っている。
だから、前へ進め。
それでしか変われないのだ。変わらないのだ。
積み重ねては崩れ、崩れては積み重ねを繰り返して人生を作り上げるのだ。
たまには休んで良い。
だけど、少し休んだら前へ進むのだ。
過去は過ぎたものだ。
今を生きるのだ。
歩け。前へ進め。
その先にある世界をみるために。
自分を救うために。
愛することを諦めないために。