Daily record

大学生が日々の生活で気づいたこと,考えたことを書いていこうというブログです。

医龍

大学の先生が講義中に話していた本をAmazonでまとめ買いした。

1〜12巻まで読んだ。

心動かされた。

架空の人物だが、確かにそこにいる。大きな存在感を放って。

朝田。

不覚にも惚れてしまった。

この世界観に惚れてしまった。

心臓が静かに高鳴るのを感じる。

自分も本物になりたいと思う。

思うだけでなく、本当になりたい。

そう思えるものに久しぶりに会えた。

自分がこうしたいというものに久しぶりに会えた。

漫画ってすごいなって、人並みな感想を抱いた。

平凡であることを恥じていた自分がいた。

人並み以下であることを恨んだ自分がいた。

しかし、それらに感謝する日が来る。

今までもそういうことがあった。

気持ちが高揚している。

目指すものがある。

目指したいものがある。

理想がある。

人の身体に触れる。

人の体の仕組みを知る。

そのことが好きでとにかく学びたい。

机上の知識ではなく,本物に触れて学びたい。

知りたい、好奇心が僕は強い。

好きなもの、興味のあるものに対して衝動性もある。

それは欠点だと思っていたが、成長する方向へと使えればいい。

最高を目指す。

その過程で見えるもの、感じるもの、全てを吸収したい。

強く、高く、最高を求めて、積み重ね、高みへ。

愛を知り、自分を知り、学び、与え、強く、冷静に、前へ、前へ。

時の流れは事実の解釈を変える

世の中には、差別はつきものだ。

 

よく問題になるのが「女性差別」。

 

それで、男性は弱い立場にある女性を助けたくなる。

 

それはとてもよく理解できる。

 

しかし、「女性は弱い立場にある」という前提を逆手にとって(意識してるかいないかに関わらず)、男性は得てして弱い立場に置かれやすいという現実に気が付いた。

 

現にそういったことを今まで多く経験してきたし、男性はそういったことを声を大きくしては言いづらい、言えない立場にある。

 

だからといって、被害者意識で過ごしていればいいというものではない。

 

それでも、生きていくのだ。

 

具体的にどうやって生きていくかは模索しながら、試行錯誤しながら生きていくしかない。

 

ただ、女性差別があるのは事実だし、あまり認知されていないように思うが、男性差別もあることも事実だ。

 

僕は男性差別が怖くて、女性と関係を深めるのが怖くてしかたなかった過去がある。

その恐怖心が大きくなりすぎて、自分だけが被害かのように感じていた。

 

今なら分かる。

相手の女性も「女性である」ということでうける理不尽な差別に怒り、恐れ、その気持ちと日々戦っていたのだと。

 

僕はその弱みを(当時は意識していなかったが)利用して、その女性と関係をもったのだ。

今冷静に分析すると、かなり最低なことをしたのだと思う。

 

僕は相手が拒絶しないから、大丈夫なのだと勘違いしていた。

お互いの同意の上での行為だと認識していた。

相手の女性の中にある複雑な心理状態を察することができなかった。

 

目の前の(身体的・精神的)快楽、安心、現実逃避に負けていた。

 

当時はできなかった解釈が、時間を経てできるようになった。

 

今までとは違った視点でものごとをみれるようになった。

 

この視点だって、多くある解釈のうちの1つに過ぎない。

それにも気づくことができた。

 

気づくことができたら、次へ進むのだ。

 

前へ進むのだ。

 

自分を自分で鼓舞し続けるのだ。

 

生きろ。

 

強くなれ。

 

お前は、君は、あなたはひとりじゃない。

 

未来の自分がそれを知っている。

 

だから、前へ進め。

 

それでしか変われないのだ。変わらないのだ。

 

積み重ねては崩れ、崩れては積み重ねを繰り返して人生を作り上げるのだ。

 

たまには休んで良い。

 

だけど、少し休んだら前へ進むのだ。

 

過去は過ぎたものだ。

 

今を生きるのだ。

 

歩け。前へ進め。

 

その先にある世界をみるために。

 

自分を救うために。

 

愛することを諦めないために。

 

 

相手がなぜそれをしたかということを考えるのだ

タイトル通り。

 

相手がなぜそれをしたのかを考えるのだ。

 

考えるだけじゃわからないことはたくさんある。

 

だからこそ、たくさん経験を積むのだ。

 

行動するのだ。

 

考えるのだ。

 

バカボンのぱぱなのだ。

解釈の仕方

起こった事実は変わらない(過去の記憶は曖昧なので、有る意味では事実は変わるとも言えるが)。

 

しかし、その事実に対する解釈を変えることはできる。

 

それが、幸せに生きる上でのヒントなのだと思う。

 

そうあって欲しいと願う自分がいることも確かだ。

 

前に進むしかないし、前に進むことでしか変わらないものがあるのだと感じている。

 

過去に過ぎたものは、過ぎたものとして捉えるのだ。

「報復」について考えた

『あの人は悪いことをしたのだから、罰を受けて当然』

『あの人は自分に嫌なことをしたのだから、失礼なこと、ひどいことをしてもいい』

 

この考え方に対して、考える機会があったので考えた。

 

これを言語化していないにしても、この考えに沿った行動をしている人は多いはずだ。

 

かくいう私も、これに即した行動をしていた。

この事実を自覚して、受け入れるだけでも時間が掛かったが、そうだった。

 

そして、私が「相手のことをおもいやることのできて、自己犠牲してまで相手のためになることをしている」と思っていた人でさえ、この考えに沿った行動をしていた。

 

おそらく、人間の本能にプログラムされている反応なのかもしれない。

 

それでも、この考えについて少し考えたいと思うような出来事があった。(1つではなくて、いろいろな出来事があった)

 

相手がそういう考えでいるのは仕方がない。

 

そこではなくて、自分がこの考えでいることに対して考えた。

 

自分が他人からネガティブなことをされたから、それをやりかえすって、単純すぎて醜いと感じた。

 

時間の無駄だとも。

 

それが人間だ、それを受け入れなければ、っていう考えも自分の中にあるけど、だけど、それでも考えたくなった。

 

(こういうこと考える人間はめんどくさいということも理解してる。それでもって。)

 

僕はある人にいろいろされた。(ざっくりすぎてすいません)

 

だけど、僕もその人に対していろいろした。

 

その「いろいろ」の中に含まれる行動1つ1つに客観的で絶対的な点数がついているのなら、どちらが正義で、どちらが悪なのかっていうのがはっきりするのかもしれない。

 

だけど現実は、行動に絶対的な点数なんてついてない。

絶対的な評価なんてついてない。

相対的な評価、時代的文脈に依存している評価は存在しているけれど。

 

だからこそ、考えようと思った。

 

僕は確かに相手を傷つけることをした。

そして、相手もその行為に対して僕を傷つけることを(陰湿な形で)した。

それに対して、僕は耐えた。無言で。

 

それからほぼ1年後。

突然、相手から謝罪の連絡がきた。

そして、友達としてつきあえたら嬉しいとも。

一方的に。

 

かなり戸惑った。

どうしたらいいのか分からなくなった。

 

いろいろな感情が渦巻いた。

「驚き」「喜び」「疑い」「自責」

長い時間をかけて整理してきた気持ちが一気に崩れかけた。

乱れた。混乱した。

 

連絡にある返信をして、相手に気を遣うつもりで「※返信不要」と打って送った。

 

こっちが考えすぎてるだけかもしれない。

おそらくそうなのだろう。

 

本当にいろいろ考えた。

相手は計算して、僕との関係を(形だけ)修復しようとしているのではないか

 

もしそうだったら、騙されてる。

やられるなら、やり返してやる。

そう思った。

ってか、そう思うのが正常で生きていく上で大切な事なのかも知れない。

 

もっと冷静に考えると答えは出るのかも知れない。

 

答えを出したつもりだったが、答えでてないな。

 

とりあえず、明日は山に登ることにした。

 

 

 

マキャベリ

三島由紀夫の「青の時代」を読み始めた。

冒頭で「マキャベリ」というワードが出てきた。

その前に久しぶりに本を整理していたら、鹿島茂が監修した「非情な人ほど成果を上げる」という本が出てきた。その表紙に「マキャベリ式 最高の仕事術」と書いてあるのが目に入った。

 

ただの偶然だが、マキャベリについて調べてみたいという気持ちが沸いたので調べてみることにした。

 

大辞林 第三版の解説

マキャベリズム【Machiavellism】

どんな手段でも、また、たとえ非道徳的行為であっても、結果として国家の利益を増進させるなら許されるとする考え方。イタリアの政治思想家マキャベリの思想から。
目的のためには手段を選ばないやり方。権謀術数主義。
 
目的のためには手段を選ばないやり方かぁ。
手段選べよ・・・って思ったがしかし。
 
文章の一部を変えるとどうだろう。
「結果として自分の利益を増進させるなら許されるとする考え方。」
余計に受け入れがたいわ・・・
 
ただ、現実ではこの考えで生きている人間が多いのではないだろうか。
いわゆる、人間の根本にある感情を見抜いたからこそ出てきた考え方ではないか。
 
以下にマキャベリの「君主論」その他で述べていることを要約した。
 
1.人は自己保存のみを追求する性、邪悪な生き物である。
 
2.法律、道徳、習慣、契約、信義その他の社会関係は、邪悪な人間が互いに戦い続ける悪を最小にするために考え出された約束事にすぎない。よって、相互の力関係が崩れると、その約束事は容易に廃棄される。
 
3.なにごとかをなさんとするなら、その目的から逆算してすべてを組み立てなければならない(目的は手段を正当化する)。その過程において約束事に抵触する恐れがあるときは、抵触するリスクと抵触しない利益を秤にかけて判断すべきで、約束事を絶対視すべきではない。しかし、約束事が有効に機能している場合は、約束事に違反するリスクを考慮してから決定を行うべきである。
 
4.善をなさんとして結果的に悪をもたらしてしまうよりも、善のために悪を成す必要があると判断したら、これを一刻も躊躇すべきではない。悪を成すことをためらっているうちに、より大きな悪を招来してしまうことが少なくないからだ。
 
5.もっとも肝心なことは、持てる全知全能を傾けてものごとを正しく考えることである。この「正しく考える」ということは道徳的に正しいという意味ではなく、合目的的に正しいということである。
 
「もっとも肝心なことは、持てる全知全能を傾けてものごとを正しく考えることである。道徳的に正しいという意味ではなく、合目的的にただしいということである」
 
これらの言葉がなぜ響くのだろうか。
外国の偉人が残した言葉だからだろうか。
 
いずれにせよ、今の僕にとっては影響力のある言葉であることに間違いはない。
 
次の記事から、「非常な人ほど成果を上げる」を読んで考えたこと、実際の行動に結びつけられそうなことなどを書いていこうと思う。
 
それでは。